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さい帯血移植を受けて

1998年6月、初めて受けた町民健診で血液の異常が見つかり、詳しく調べたところ「慢性骨髄性白血病」と診断されました。実家に就農して丸3年、27歳の時でした。真っ暗な宇宙空間へ放り出されたような孤独感、死への恐怖感もありましたが、入院までの数日間で頭の中を整理していくうち、家族に大きな負担をかけてしまうことへの申し訳なさと、以前から関心のあった骨髄バンクへドナー登録しなかった行動力の無さに悔い思いが残りました。唯一の解決策は、自分の置かれた状況を冷静に見て、肌で感じて、残された時間を精一杯生きること、そう言い聞かせ病と向き合ってきました。

健康な時には気が付かなかったことですが、病になって失うものと得るものを天秤にかけることがあります。時間やお金、仕事や家庭、あらゆる尺度がありますが、「いのち」は人間が持つ秤に掛けることはできないと思いました。得るものでも失うものでもなく、授かるもの。できるのは育む(+)か、育まない(0)か、の二者択一と思えたのです。「明日(≧0)」という言葉の意味が解ったような気がしました。治療を続ける中、結婚して子供も授かり、かけがえのない希望を得ることができました。骨髄バンクのボランティア活動にも参加し、いろいろな想いに触れることができ、数多の悲しみを乗り越え、育まれ、今があることを知りました。

2002年8月、慢性期から急性転化へ移行し早期の移植が必要となり、11月にさい帯血移植を受けることになりました。当時はまだ成人への移植は少なかったので不安も大きかったのですが、数値と暗号だけが記されたさい帯血のデータから生い立ちを想像し、主治医からさい帯血バンクの様子や移植施設までの運搬時の話を聞いて、不安は徐々に和らいでいきました。そして何より心強かったのは、骨髄バンクができて間もない頃に白血病を発病し、十余年ドナーを待ち続けていたある患者さんが、ようやく臍帯血によって移植に漕ぎ着け無事に生着、という場面を目の当たりにしたことでした。移植日から生着までの31日間は身体的にはとても辛かったですが、精神的には穏やかでいることができました。

先日、臍帯血採取施設の研修会に参加させていただく機会があり、採取に携わる先生のお話を聞くことができました。大変なご辛労にもかかわらず、心血を注ぐ深い思いを知ることができました。新たな命の誕生が、更に新たないのちのたねとなって産まれ育まれ、この体の中を巡っているのだと思うと、熱いものが込み上げてきました。25mlに詰め込まれたのはさい帯血という名のいのちの結晶。育めば明日はさらに輝くと信じて止みません。

いのちのバトンを受け継いで

46歳の時に乳がんの告知を受け、左乳房全摘及び腹直筋皮弁同時再建の経験をもつ私は、がんに対する想いが人一倍強いためか、がんへのスティグマの払拭や、がん対策を充実させたい想いで、がんアドボケート活動を行っていました。そんな中、2016年の年頭の誓いは、がん対策を公共政策として充実させるための勉強をすることと、体力をつけることでした。大学院の社会人枠で公共政策を学び、毎日1000m泳ぐことを目標として頑張っていた矢先、呼吸困難に陥り、数日のうちに横になって眠ることもできないようになってしまいました。二人に一人ががんになるといわれている時代、すでにそのノルマは果たしているので、自分が新たながんになるなんて思ってもいませんでした。それに、呼吸困難と「がん」は全く結びつかなかったし・・・。

でも、運の良いことに、私の肺のレントゲンを撮ってくれたかかりつけの医師が、ただことではないことを見抜き、がん診療連携拠点病院の呼吸器内科の受診を促してくれたのです。そうそうに受診し、CTで診てみると、縦隔に巨大な腫瘤ができていて、胸水が心臓や肺を圧迫するほど溜まっていました。そこですぐに血液内科の医師(現在の主治医)にバトンタッチされたのですが、このバトンタッチも絶妙のタイミングでした。主治医は「時間との勝負」という表現で私の状況を説明してくれ、病名は「急性リンパ芽球性リンパ腫」といわれました。その時の真剣な説明と真摯な対応に、心から主治医が信頼でき、すぐに治療に入りました。主治医からは、化学療法で繋いでいく方法と、造血幹細胞移植て完治を目指す方法を提案されました。当然、完治を目指したいと思い、造血幹細胞移植の説明をお願いしました。そしてHLAを調べることとなり、私と2人の妹、3人の息子の6人分のHLAを調べながら、どの移植方法がいいのかと迷いました。HLAの結果が出たとき、フルマッチはいませんでした。しかし、息子の一人が「僕のを使って」と強く申し出てくれたのです。ハプロでお願いしようか・・・。とても迷いました。

その時主治医がすすめてくれたのが臍帯血移植でした。ドナーに負担がかからず、しかもHLAもフルマッチが選択でき、GVHDも軽いことが多いと説明を受けました。私は二つ返事で主治医にお願いし臍帯血移植を受けました。25mlの臍帯血移植はあっという間に終わりました。無菌室で過ごした約3週間、生着だけを願っていました。そして白血球等の増加が認められ、「生着したよ」といわれた時はうれしい気持ちでいっぱいでした。でももっと嬉しかったのはその後でした。臍帯は、お産の時、いわゆる「へその緒」としてお産の記念に取っておいてもらうものくらいにしか思っていなかったのですが、私のもとにたどり着くまでには想像を超える皆さんの努力があることを知ったからです。臍帯血を提供してくれたママと赤ちゃんはもとより、臍帯血の重要性をママに説明して下さる説明ボランティアさんがいて、採取した臍帯血を入念に調べHLAごとに保存してくれる先生方がいて、その情報を的確に発信してくれるシステムがあり、そこから私にぴったりの臍帯血を選んでくれた主治医がいて、それを私のために慎重に運んでくれた運送係の方がいて、私の体調を十分に考慮してくれた上で移植を行ってくれるという壮大な作業を行ってくれる皆さんがいる。私の命のバトンが繋がったのです。

今、臍帯血移植から約2年。主治医にはいろいろお世話になっていますが大きなトラブルもなく強いGVHDに悩まされることもなく、私にぴったりの臍帯血を提供してくれた関係者の皆さんに心より感謝しています。臍帯血事業はとても大変なプロジェクトだと思います。自分が体験し、とても重要な命のバトンを繋ぐ事業だと実感しています。この事業に関わってくださる皆さんに心より感謝申し上げます。

さい帯血を提供しました

私はもともと臍帯血という言葉は聞いたことがありましたが、何に使うものなのか全くというほど知りませんでしたし、知る機会もありませんでした。
今回の妊娠に伴い、病院で初めて臍帯血についての話を伺いとても衝撃を受けました。骨髄バンクという言葉は今は耳慣れたことばになっていますが、提供する側、提供される側どちらにもリスクを負いやすいというイメージがあり、提供したくても少し怖いという気持ちがありました。でも臍帯血での提供は小さな子供にも負担なく、今まで赤ちゃんと私をつないでいた胎盤とへその緒で誰かを助けることができる方法だということを知り、ぜひ協力したいと思うようになりました。
まだまだ私のように臍帯血について知らない妊婦さんもたくさんいると思います。この時期にしかできないことですし、もっとたくさんの妊婦さんに知ってもらい協力していただけるようになれば・・・と願っています。

Y.Tさまより

一人でも多くの方が元気になられることを

私が臍帯血バンクを初めて知ったのはテレビCMでした。その時は新婚で「私も妊娠したら提供できたらいいなぁ。」と軽い気持ちでした。しかし、なかなか妊娠に至らず、その後夫が病気で手術する事になったり、知人の家族が腎臓移植することになったりと、身近に手術や移植で助かる命を目の当たりにして、自分も病気の人に何かできる事がないかと強く思うようになりました。
その後夫も順調に回復し、赤ちゃんも授かり、両親学級で改めて臍帯血バンクの事を知り、是非提供したいと思い採血しました。
これから臍帯血バンクがもっと浸透して一人でも多くの方が元気になられることを願っています。

R.Eさまより

献血する方の意思を大切に

私は助産婦という職業柄、臍帯血バンクの必要性を感じていたので、私の献血した血液が誰かのお役に立てるならばと考え、H14とH17の2回協力しました。
臍帯血は簡単に採血できて、白血病の方に非常に有効な手助けができますが、まだまだ血液が不足しているとききます。
一人でも多くの妊産婦さんが臍帯血バンクに関心をもってほしいと思いますし、今後、職場復帰した際には、一人でも多くの方に呼びかけ、献血する方の意思を大切にし、お手伝いさせていただく側になりたいと思います。

K.Tさまより

元気に育っています

さい帯血のバンクのことはテレビCMで知っていましたが、あまり詳しい内容までは知りませんでした。そんな時、両親学級でさい帯血の大切さを学び、さい帯血バンクの重要性・必要性をひしひしと感じました。
そして現在、母の友達のお孫さんが重い病気を患って、さい帯血の提供を待ちながら長い入院生活をされていると聞かされました。まだまだ献血が少ないらしく、なかなか合致する型の血液がみつからないそうです。
私が献血させて頂いたさい帯血が、一人でも多くの病に苦しんでいる方のお役に立てることを切に願い、そしてもっともっと幅広くさい帯血バンクの輪が広がることを心から祈っています。

J.Kさまより