3つ目の誕生日

ベッドに並べた2枚の用紙。命を掛けた選択は僕一人に委ねられた。人に託すことができればどんなに楽だろう。

4年間病気と向き合ってきてここで引き下がるのは確かに卑怯だ。けれどもあまりに酷ではないか・・・。無言の空気が「生きるか死ぬかはあなた次第、はやく決めなさい」と言っていっているような気がする。決めることなどできなかった。無理やり笑顔を作って「どっちでもいいです!『成功』するのに変わりないのだから!」。開き直りの何者でもない言葉に、戸惑い気味だった先生の顔に偽りのない笑みが戻った。「私もそんな気がする!」と言ってくれた。肩の荷が降りた。おそらく先生もそうだったのだろう。空っぽの笑顔に希望が満ちていく。そう、僕にできることは信じ続けること、生死の選択は天に任せればいいのだから・・・。

僕は98年6月に慢性骨髄性白血病を発病した。治療を続けながら骨髄バンクでドナーを探し、その間に結婚もして子供も産まれた。闘病の精神的な支えとなったのは家族であり、また骨髄バンクを支えている人々の思いであった。
昨年病状が急変し、骨髄バンクからドナーを待つ時間もなくなり、「臍帯血移植」の話が上がった時はそれなりの覚悟をした。歴史の浅い成人臍帯血移植では過去の実績にすがることはできず、判断材料として手渡されたのが2つの移植臍帯血の細かなデータだった。移植に重要な項目はHLA、体重あたり有効細胞数などであるが、目に止まったのは「採取年月日」だった。採取年月日とは胎児が母胎から切り離された日、つまり誕生日だ。一つは娘と同じ年・・・陣痛室で聞いた産声、生まれたてなのにキュッと握り返してくる、小さくても力強いあの手の感触を思い出していた。

1月8日、カーテンの向こう側にそれは届いた。10日ほどまえに主治医が兵庫まで取りに行ってくれた。移動中はかなり神経を使ったそうだ。移植時も、細胞一つも無駄にしないようにと心がけてくださる先生方の配慮が有難かった。第2の誕生日。その後は果てしない暗いトンネルが続いた。肉体的、精神的苦痛は語り尽くせないが、娘と同じ年の子を自分の中で育てているのだ、と思うと不思議と力が湧いてきた。
移植後31日目、ようやくカーテンが開いた。僕の骨髄の中で新しい造血幹細胞が働き始めた。いま、家族と共に生きている。娘はもうすぐ3歳になる。天使の笑顔をみていてふっと思う。あの空の下でこの子も元気にそだっているのかな・・・。3つ目の誕生日、今度は何をしよう。産んでくれたお母さん、ありがとう。愛情込めて大きく育ててくださいね。